ゆっくり堕ちていくんだ。
体がなんの支えもなくなったのがわかるんだ。
「そんな夢を見てね」
「ふぅん」
特に珍しがるでもなく答えて、彼はコーヒーをすすった。
「落ちる夢か」
「そう。どっちかって言うと、浮かぶ夢だったのかもしれない。とにかく、足の下に何もなくなって、体がひどく不安定になってね」
「背が伸びたのかもしれない」
「まさか。成長期はもう終わったよ」
彼はコーヒーマグをおいた。
「俺は夢占いなんてできないから、専門的な意見を求められても困るね」
「それもそうだけど」
朝食の合間の、何気ない、他愛ない会話だ。
「そういえば、君は夢を見るのかな?」
訊かれて、彼は少し首をかしげた。
「見てはいる。見たという記憶はあるんだ。だけど、内容となるととんと思い出せないね」
「そう」
「現実でも覚えなきゃいけないことがたくさんあるのに、わざわざ非現実にまで目を向けてやれるほど優しくもないんだ」
ふぅん、と、口の中で答える。彼の多忙ぶりは、以前から承知のとおりだ。
「――ねえ、覚えておいてあげるってことは、君にとっての優しさなのかい?」
「ああ。ビジネスの世界じゃ、記憶にどれだけ残れるかが物を言う」
彼は端的に答える。そして空になったマグを見下ろして、席を立った。
「仕事に行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
テーブルに残されたマグを取り上げて、僕も席を立った。
その途端、ふわりと、体が浮いたような気がして。
気がつくと、病院の白い天井を眺めていた。
「――あ?」
「おはようございます」
看護婦がこちらに声をかけて、カーテンを開く。
「いい朝ですよ」
「あ、はい」
阿呆みたいな返事をして、僕は、部屋を出ていく彼女の背を眺めていた。
彼女と入れ違いに、白衣を着た男性が現れる。
「気分は?」
「悪くないです」
こちらを覗き込んでくる顔は、夢で見た彼と同じもの。
「あの、先生」
「うん?」
「僕はいつからここに居るんでしょうか」
「さてな。俺は引き継ぎだから、細かいことはカルテを調べないと答えられない」
答える仕草も、夢の中の彼に瓜二つだ。
それとも、彼が僕の夢に出てきただけなのだろうか。この病院の中で出会う、数少ない知り合いなのだ。
「――夢を、見ました」
「へぇ。どんな?」
「空を飛ぶような、落ちるような夢です」
「ふぅん」
彼は、こちらを見て簡単な返事をした。
「俺は精神分野は専門外だから、どう言う意味があるのか相談には乗れないんだが」
「あ、はい」
「じゃ」
次の患者がいるらしい、彼は部屋を出ていく。
窓辺に立って、お見舞いのりんごを手にとって、ひとつかじった。
と、ふわりと、体が浮いたような気がして。
気がつくと、授業が終わっていた。
「帰るぞ」
声をかけられて振り向くと、彼が立っている。思わずまじまじと見つめると、彼は不思議そうな顔をした。
「どうかしたか」
「ううん、何でも」
帰りにゲーセンでも寄るか。そんな話をしながら、教室をでる。
「そういえばさ」
彼が言った。
「空を飛ぶ夢、見たんだ」
「え?」
「落ちてたのかもしれない。だけど、俺の体が中に放られたのはわかったんだ」
変な感じだったな、と付け加えて、彼はカバンをぶらぶら揺らした。
「――君も?」
訊いた声は、届かない。
新しく買ったゲームの話を聞かされながら、歩く。
と。
「危ない!」
宙から、花瓶が落ちてきて。
がつっ、と、鈍い音を立てた。
彼の体がぐらりと傾いた。
道はあっという間に赤く染まった。
僕は倒れた彼に駆け寄って名前を叫ぼうとして――
目が、覚めた。
「おはよう」
目を覚ますと、隣に立っていたのは彼だった。
「ああ、おはよう」
返事をして、見を起こす。
コーヒーを一杯どうだと尋ねられて、じゃあ少しだけ、と答えた。
「そういえば」
彼は何気ないことのように言った。
「嫌な夢を見たよ。目の前でお前が死ぬ夢」
「え?」
彼が夢の内容を覚えているなんて、珍しい。
苦い顔のまま、彼は言う。
「椅子から転げて、床のナイフが突き刺さって死んだり、病院で窓から落ちて死んだり」
言葉を聞いたとたん、眉間がザクリと傷んだ。右の腕が、嫌な熱を持って疼く。
彼は小さくうめいて、頭に手をやった。
「――どうにも頭が痛むんだ。今日は、仕事を休むことにするよ」
「ああ」
返事をして、布団にそのまま体を落とす。
布団は、ふわりと僕を包み込んだ。
その感覚に、冷水を浴びせられたように目が覚める。
浮かぶような、沈むような。
体が宙にあるような、そんな感覚。
――あ
ここからじゃ見えるはずもないのに、階段から彼が足を滑らせる様がはっきり目に映った。
鈍い音がひとつ、耳を塞ぎたくなるような音が、聞こえる。
「――いやだ」
視界が、どんどん黒くなっていくのが見えた。
またこれも夢なのか。
どこまでが、夢なんだ。
何度死んだんだ、彼は。
そもそも彼は誰なんだ。名前を呼べない、あの彼は。
僕も死んでいるのか。
今は、今は一体、いつなんだ。
集中治療室の中、二人の意識が混濁していた。
一人が目を開けると、もう一人が目を閉じる。
目を開けているからといって、意識があるわけでもない。
親友二人でスキーへいって、うっかり崖から落下し、意識不明の重体で運ばれてきた。
以来ずっと、こうして二人、生と死の間を彷徨っている。
「――かわいそうに」
若い女の医者は小さく呟いて、二人の頭を撫でてやった。
「――おやすみなさい。せめて、いい夢を」
「Good Night」/「こがわら」の小説 [pixiv] http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=1914505
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